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本郷顧問連載コラム:Vintage Sake (全33回)
第2回:消えた造酒司
長期熟成酒研究会顧問 本郷信郎
2010年12月15日(水)
明治の初め、新政府は、各藩で発行していた酒造りの免許「酒株」への徴税から、冥加金を払えば、誰でも免許をもらえる制度としたため、当時の富裕層が続々と参加。現在のメーカーの約半数はこの時代に誕生し、残りはそれ以前で、500年を超える蔵もある。
このころ、政府お抱えの外国人顧問から「和酒有害」論が唱えられ、清酒に対する課税は厳しいものとなり、同時に造り即課税の造石税とされた。明治の日清・日露戦争戦費はすべて酒税で賄われていたといわれ、1899(明治三十二)年の国家財政の38.8%は酒税であったという。
人々に楽しまれて来た熟成古酒は税の負担に耐えきれず、市場からその姿を消している。
大化の改新(645年)の時に宮中に設けられ、伝統文化の中心にあった造酒司もいつの間にか消えてしまっていた。しかし、今も随所に熟成古酒の話は残っている。
東北地方の山里では昔から毎年、酸の多い山ぶどうをつぶして1.8リットル瓶で戸棚の奥などで10年くらい熟成させ、妊婦や風邪の際に滋養剤として飲まれていた事実がある。また古い時代に土葬していたころ、生前酒が好きだった人は瓶やつぼに入れた酒と一緒に埋葬されたが、戦後の墓地埋葬例が施行され、掘り出したところ、その酒がうまかったと語る墓守の話。造り蔵に長かった老杜氏蔵の中から、今まで見たことない風格ある酒が出てきたとの話。しかも、その酒は二日酔いの極めて少ない酒だったという体験談が伝えられていた。
戦後、酒税が蔵出し税(蔵の中にある間は課税されない)に変わり、原料米の割当制も解けた1960年ごろより、昔の伝統を知るロマンに満ちた酒造家たちによって、長熟古酒への挑戦が始まった。85年には山形県の初孫、埼玉県の鏡山、岐阜県の達磨正宗、福岡県の冨の寿の蔵元を発起人とする「長期熟成酒研究会」開催の案内状が発送されたのである。
今から20年近く前、姫路の蔵元・龍力が、京都の高台寺の高級料亭「土井」で催した「米のささやき」の蔵人による大太鼓と笛の演奏会に招いてくれた。踊りが終わって、祇園の舞妓・小蝶さん、有名な芸妓・小萬さん、三味線の名手・行幸さんとお酒を交わしているうち、行幸さんが、昔居たというお茶屋「能登屋」での熟成酒の話になった。土蔵の床下にたくさんの一升瓶を蓄え、瓶の上部に星のように輝く結晶のようなものがひとふたつできるころの酒をぬる燗にして出していたという。
その年、再び京都を訪れ、祇園の行幸さんの店「藤田」に友人の地元蔵元社長と尋ねた際には、祇園では戦中も海軍がいくらでも酒を持ち込むので不足せず、その習慣は続けられたということも聞いた。
次回は、“逆境”の中、現代に残る数々の熟成古酒を紹介したい。
(Kyodo Weekly 2008.5.12号掲載)